2009.06.27 Saturday
マニ塚をコラルする。リストラ男のチベット紀行
ついに来た。
いよいよチベットの大地をチャリで出発する。過酷であり、孤独な旅が始まる。落ちこぼれ、役立たずには丁度いいかもしれず、時間はたっぷりゆったりある。役に立たない男が何の役にも立たない旅をする。それを記述しても意味はない。厚かましく恥ずかしいだことの自覚はある。
チベット自治区への入域許可証が取れないという理由から、憧れの青蔵鉄道でのラサ入りはあきらめ、こそくに地道をチャリで走る方法を取ることにした。そのために西寧から寝台バスに乗り込んだ。チベット自治区との境界が近い街に移動するためだ。翌朝1番には広大なチベット東部の街、玉樹という街に着いた。

玉樹は標高3680m。ここでしばし高度順応をする。高度順応しておかないと、チャリで標高5000m近い峠越えは命取りとなる。ヘモグロビンの量が絶対的に足りない。せめて頭痛や吐気が起こらない程度にまでに体をならしたい。そんな理由もあって、街郊外までチャリを走らせた。
郊外へ走り出すとすぐ隣に、恐ろしいほどでかい塚が見えてきた。その塚とは、経文や絵が彫られた石(マニ石))の塚だ。その数20億以上、ギネスに載った世界一のマニ塚だそうだ。そのマニ塚を多くのチベッタンが廻っている。日本で例えるなら“お百度参り”といったところだろうか、チベットでは普通に見られる光景だ。

ある者は経文を唱え、ある者はマニ車を回して、その周囲を廻っている。人が熱心にしていることは、直ぐに真似したくなる。さっそくマニ塚を巡る行為(コラル)に参加した。
平日早朝なのにたくさんの人だ。一番目立つのは初老のオバちゃんと小さい子供づれ、袈裟をきた僧侶も5分の1ぐらいはいる。初老のオジさんは携帯電話片手に商談の話だろうか、けげんな顔で会話をしながら、しかしコラルしている。その速さは尋常でない。かなりの早歩きオレは皆に抜かれていく。そして2回廻ったらオレはもう飽きてしまった。
しかし、この行為に一体どんな意味があるのだろうか?ただ尊いものの周りをまる。廻り巡ることで、現世のケガレが薄められると信じている。微弱ながら清らかなものに変わっていく。人間とはなんて空しい存在だろうか。そんなことにでもしないと、人はケガレにつぶされてしまうというのか。罪の意識で息が苦しくなくなってくるのか。
このマニ塚を廻る行為と今回のチャリの旅がだぶって見えてきた。
今回の過酷なチャリの旅にどんな意味があるのだろうか?
この問いは牛が反芻するように幾度も脳を巡りめくった。この問いと何度向かいあってきたことか。すでに答えが無いことは知っている。
尊いものを廻る行為(コラル)は何回廻らなければならいとうことはなく、自分の好きなだけ廻ればいい。コラルを終えた人々は一様に穏やかな顔をして境内でたたずんでいる。ジイちゃんとバアちゃんがほとんどだ。ゲートボールよりよっぽどいいと思う。一様に納得した表情で、そこにはすがすがしさがあった。
途中、一緒したチベッタン青年
旅に意味などなくていいじゃないか?これぞ意味があること思って追い求めてきたことが、折り返し点すぎるとそれは社会全体ではたわいもないことだと知った。大切なことを守ってきて、振り返るとそれは実はたいしたことではない。そんなことを感じる歳になった。意味はなくともそれはそれでいいじゃないか?やり終えた充実した感覚が少し残れば、それだけでいいのではないか?
リストラ男にはもったいないことである。余分についた垢を落とすために、仕事をせずに時間とお金を旅に費やす。それで一時の納得を得る。皆が同じ理屈で旅をしだしたら日本はおかしくなる。それはそうなのだが、何もせず日本に居るより安くあがるのも事実だ。
使い古された言葉だが、「旅は命の洗濯」
洗濯しても、洗濯しても、直ぐ汚れてしまう。しかし、それは贅沢なことかもしれない。
現在は 玉樹からチャリで約200km走り、無事チベット自治区に潜入中です。





